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2006年01月14日 (土) | 編集 |

苦しみを恐れる者は、その恐怖だけですでに苦しんでいる   モンテーニュ



苦しいのが嫌だ。しんどいのが嫌だ。めんどくさいのが嫌だ。だけど生きている限りこうしたものからはのがれられない。

ご飯を作るのがめんどくさい、弁当買ってくるのがめんどくさい、出前とるのもめんどくさい。以前俺はこういう理由で一月近くほとんど何も食べなかったことがある。たまたま遊びにきた父がやつれてる俺を発見して飯を食わせてくれなかったらそのまま死んでいたのかもしれない。

俺は「飯を用意するという面倒が嫌」だったから食事を取らなかった。その苦しみから逃げた。だがそうしたら今度は「空腹」という苦しみがやってきた。苦しみはどうしてもやってくる。

どうしてもにげられないことなのにどうして俺は苦しみを嫌い、それから逃げようとするのだろう?

空腹の苦しさに比べたらご飯用意する苦しさなんて屁みたいなものじゃないか。どうしてさっさと食べなかったんだという問いはもっともだ。空腹の苦しいを1000としてご飯用意するめんどくささは1あるかないかだろう。

だが俺はご飯を食べている間のわずかな期間、今現在の空腹の苦しみに加えてご飯用意の苦しみがプラスされるのがいやだった。怖かった、逃げたかった。ご飯用意してそれを食べるのに一時間かかるとしてたった一時間で1000の苦しみが0になる。なのに1000の苦しみが一瞬でも1001になるくらいなら1000のままでいいと考えていた。

この例は今考えてると我ながら自分でもバカげているがここまで極端でないだけで俺は今もにたような思考で生活している。こういっちゃなんだがほとんどの人間がそうなんじゃないだろうか。

家事や労働などの苦しみ。それはずっと続くわけではない。長期的に考えればむしろ「家事や労働をしないことのほうが苦しい」のに。そう、俺が食事をおっくうがって空腹に苦しんだように家事しなかったら環境悪化で生活がしにくくなる。労働しなかったら飯がくえない。

苦しいことからむやみに逃げない。逃げるとさらに苦しいことになるからだ。それに苦しみにたえるとそれが終ったときものすごく気持ちがいい。だから苦しみもそう悪くない。

よくいわれるこういう考えが正解だ。俺もそう思う。だけど苦しみの後の喜びのあとにはまた苦しみとそれに耐えるための時間がまっている。例えば俺はクソつまんないバイトがおわった時ものすごい開放感を覚える。特に忙しかったりムカツク客がきた時のバイト開けの開放感は素晴らしい。くたくたになって帰る途中にみる朝日は素晴らしい。

だけどそれは一瞬で消えてしまいかわりに頭の中では「あと40時間後にまたバイトだ」という思考が始まる。バイトという苦しみまであと何秒というカウンターがまわり続けている。バイトをやめない限りこれからは逃れられないのだ。

で、やめるとする。だが今度は無職による苦しみ。社会的に恥ずかしい。というか飯が買えなくなってしまうという苦しみにおそわれる。


苦しみはどこにいてもある。前向きであろうと後ろ向きであろうと俺は苦しい。乗り越えても乗り越えても新たな苦しみが生まれる。それから逃げる手段は一つしかない。死だ。

では何故俺は死なない?苦しいものからは逃げたいのに。それは完全な苦しみ0の状態にいたるまでに多分ものすごい苦しみがあるからだ。さらにその苦しみがどんなものなのかが体験したことがないから分からない。死に至るまでの苦しみは100かもしれないし10000かもしれない。0かもしれないし1億かもしれない。

だから俺はこうして苦しみから逃げまくりながら苦しんでいる。
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